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               新型コロナ後の世界を考える 2020年4月27日 境毅

 

 

  1.私の経験から

 私にとっては、60年~70年闘争の時点では予測できなかった様々な事柄が以降にありました。日本経済の高度成長と、一瞬でしたが、土地バブルに支えられた世界一の金融大国に上り詰めた日本(ジャパンアズナンバーワン)は以降下り坂ですが、この上り坂も下り坂もなかなか予測不能でした。

 それよりも大きな事件は、ソ連・東欧の崩壊でした。目の黒いうちにこんなことが起こるとは、という驚き、そしてその後の新自由主義の跋扈が、環境破壊を続け、国民経済を疲弊させ、さらにはグローバル化した実体経済が、脱税を続けていっている。とりわけ金融市場における規制緩和は、消費者に貸し付けた債務証書の証券化を生み出し、そのもとで証券市場がジャンクボンドに溢れかえり、企業への貸し付けによる近代的利子生み資本に代わって消費者に貸し付ける高利資本が幅を利かせ、資本主義社会を揺さぶっています。格差の拡大は、資本・賃労働関係を破壊し、窮民はグローバルな環境のもとで移民としてEUに流れ込み、また先進諸国も非正規労働の増加によって、社会的不安が増大しているのです。

 リーマンショックはこのような新自由主義が作り出した体制を揺さぶりました。しかしこの時の金融危機は、中央銀行の前例なき金融緩和政策で何とか実体経済の危機には至りませんでしたが、ゼロ金利という政策は、資本に利子がつくという資本主義の否定であり、銀行の倒産が日程に上る中、それから10年、またもや膨らんだバブルの崩壊前夜という認識が識者に共有されていました。

 そのような時点で、新型コロナのパンデミックが起きたのです。2016年のトランプ登場によって、新自由主義の行き過ぎに縛りをかけようとしていた各国政府は、この危機に大きな政府として対応せざるを得ず、都市のロックダウンをはじめあれよあれよという間に世界経済の縮小が起こっています。

 このような事態の進展によって、日本でも外出自粛が呼びかけられ、ゴールデンウイークも人々の移動はなく、家にこもっています。ある意味考える時間が与えられたのです。このチャンスに新型コロナ後の世界を構想することを呼びかける必要があることに気づきました。

 

  2.ラトゥールによる調査の提案

 

 私はいまラトゥールに注目していますが、彼が新型コロナ後の世界創造のためのアンケートを提案しています。自動翻訳ですが次に引用します。

 

  ラトゥールによるアンケート 2020年3月29日

 

 ほとんどの活動が強制的に停止されていることを利用して、廃止してほしいものと、逆に発展してほしいものを把握しようではないか。

読者の皆さんには、この短いアンケートに答えてみることをお勧めしたい。それは、直接生きてきた個人的な経験に基づいているので、特に有用であろう。この問題は、意見を述べる問題ではなく、あなたの状況を記述する問題であり、調査することになるかもしれません。多くの回答者の回答をまとめ、それらが交錯することで生まれる風景を構成する手段を自分に与えたならば、政治的表現の形を見出すことができるのは、後になってからである。

 以下の質問にまず個人的に、そして可能であれば他の人と一緒に答えてください。

 

質問1:現在中断している活動のうち、再開しないでほしいと思うものは何ですか?

 

質問2:なぜその活動が有害である、余計なものである、危険である、矛盾していると思うのか、また、その活動がなくなったり、中断されたり、代替されたりすることで、あなたが望む活動がより簡単になる、より一貫性のあるものになると思うのか、その理由を記述してください。

(質問1に挙げた活動については、それぞれ別段落にしてください)。

 

質問3:あなたがもはや継続する活動を続けることができなくなった労働者・従業員・代理人・起業家が、他の活動への移行を支援するために、どのような方策を推奨しますか。

 

質問4:現在休止している活動のうち、どの活動を発展させたい・再開させたい・ゼロから作りたいと考えていますか?

 

質問5:なぜこの活動があなたに肯定的に見えるのか、そしてそれがあなたが好む他の活動とどのように簡単・調和し、一貫し、あなたが好ましくないと考えるものと戦うのを助けるかを説明してください。

(質問4に記載されている各アクティビティについて別々の段落を作成します)。

 

質問6:労働者・従業員・代理人・起業家が、この好ましい活動を引き継いだり、発展させたり、創造したりするための能力・手段・収入・手段を身につけるために、あなたはどのような手段を推奨しますか。

 

あなたの記述を他の参加者の記述と比較する方法を見つけてください。答えをまとめ、それを重ね合わせていくことで、対立、同盟、論争、対立の線で構成された風景が徐々に出来上がってくるはずです。この地形は、これらの活動に必要な政治的表現を生み出す具体的な機会を提供してくれるかもしれません。

 

◯ ラトゥールについては次を参照ください。

論文ラトゥール『地球に降り立つ』(新評論)の勧め

http://0a2b3c.sakura.ne.jp/ebara4.11.pdf

 

3.ブルーノ・ラトゥールの提言(原題 Is This a Dress Rehearsal?)

 2020年3月26日

ラトゥールのサイトは次です。http://www.bruno-latour.fr/

 

◯ 翻訳は大賀英二(文化知普及協会会員)。論文の分かりにくいところには、カッコ内の文言で補足しました。ここでラトゥールが提起しているのは、現在の健康危機でロックダウンされている現状で人々に考えてほしいこととして、21世紀の国家を「世界的に拡大した視点を有する国家」と規定し、それによって気候変動に象徴的な環境危機に備える、という目標に向けて人々が目覚めることを期待しています。

 

 今回の全般的な拘束状態が、予期しないで偶然に四旬節(復活祭までの46日間、祈り、断食、慈善の3点を通じて悔い改めを表明するため、伝統的に食事の節制と祝宴の自粛が行われ、償いの業が奨励される期間)と一致したこと、それは連帯感から切り離された状態で、なすべきことが何もないままに、戦場から遠く離れたままでいることを強いられてしまった人々にとって、また大変に歓迎すべきことなのである。

 この義務的な断食、世俗的で共和制的なラマダンは、何が重要で何が軽蔑的なのかを考える良い機会になる。ウイルスの介入は、あたかも次の危機(気候変動に見られる環境危機)のためのリハーサルのようなものであり、その危機は生活条件の再調整を私たち全員に課題として突きつけている。そこから、私たちが日常の存在のすべての詳細と同様に、慎重に整理することを学ばなければならない。私は、他の多くの人々と同様に、この健康に対する危機こそが、気候変動への準備を私たちに促し、誘発し、私たちを扇動しているという仮説を提唱している。この仮説は、これから検証される必要がある。

 

 四旬節

 

 これら二つの危機(健康危機と環境危機)が連続して起こるだろうと考えたのは、社会の古典的な定義である「人びとの関係としての人間」が意味をなさないということに、突然の痛切な気付きがあったからである。社会の状態は、そのほとんどが人間の形をしていない多くのアクターの間での繋がり方にあらゆる時点で依存しているのである。このことは、私たちがパスツール以来、知っているような微生物だけでなく、インターネット、法律、病院の組織、国家の物流が、気候と同様に当てはまる。もちろん、ウイルスに対する「戦争状態」という雑音に晒されてはいるが、マスクや検査薬の在庫管理、財産権の規制、市民の習慣、連帯のジェスチャーなどで構成された鎖の中の一つのリンクに過ぎないとはいえ、微生物は感染症の病原性の程度を決定する上では、それらと同じくらい重要なのだ。それがたった一つのリンクに過ぎないとしても、一旦ネットワーク全体を考慮に入れれば、同じウイルスであっても台湾でも、シンガポールでも、ニューヨークでも、パリでも、同じように作用することはない。世界的な流行というパンデミックは、過去の飢饉や現在の気候危機ほどに「自然」現象ではない。社会は、社会圏という狭い枠を超えて久しい。

 

 そうは言っても、二つの危機という平行線がもっと先に進んでいるかどうかは、私には明らかではない。結局のところ、健康危機は目新しいものではないし、迅速かつ過激な国家の介入は、これまでのところあまり革新的ではないように思われる。マクロン大統領の国家元首としての姿を引き受けようとする熱意は、今までの彼には情けなくも欠けていた。テロ攻撃-それは結局のところ、警察の仕事に過ぎない-よりも、パンデミックは指導者や権力者の間で、「防衛」-「私たちはあなたを守らなければならない」「あなたは私たちを守らなければならない」など-という自明の意識を呼び覚ます。そうすれば、それによって国家の権威が充電されるか、あるいはそうでなければ暴動に見舞われるべきだとの要求が許されるようになる。

 

 しかし、このような国家は、21世紀の国家(世界的に拡大した視点を有する国家)ではありえないし、生態学的変化の国家でもない。故アラン・ドロシエールの言葉を借りれば、それは正しくは統計と呼ばれるものの状態であり、上から見て専門家の力によって導かれた領土内に張り巡らした道路網による人口管理である[1]。これはまさに、私たちが今日見ている通り、復活したものである-しかも、ただ一つの相違は、一つの国家が次の、世界的に拡大した視点を有する国家だということである。現在の状況の独創性は、外では警察権力の拡大と救急車の音しか聞こえない中、家に閉じこもったままでいることで、ミシェル・フーコーの講義から直接出てきたような生政治の図の戯画化された形を集団的に演じていることだと私には思える。他の人が自分の家に閉じこもり続けることができるように、とにかく働くことを余儀なくされている非常に多くの目に見えない労働者の抹殺を含めて-定義上、自分の家に閉じこもることができない移住者は言うまでもない。しかし、この風刺画はまさに、もはや私たちのものではない時代の風刺画である。

 

 「生死から守ります」とだけ言える国家、それは科学者たちだけが知っているウイルスの移動経路や統計上の数値からだけ理解できるウイルスの作用から解る感染から「守る」ことと、「生死から守ります、何故ならば、あなた方が依拠する生活者すべての居住の適正環境を維持するのだから」と言える国家(いまだ存在しない21世紀の国家)との間には、大きな隔たりがある。考えてみよう。マクロン大統領がチャーチル風の口調で、ガスや石油の埋蔵量を地中に残し、農薬の販売を止め、深い溝掘りを廃止し、大胆にも閉じられた高級住宅での屋外ストーブの禁止を発表したとしたらどうだろうか。もしガス税が黄色ベストの反乱の引き金になったとしたら、このような発表の後に起こる暴動を想像してみてほしい。それにもかかわらず、フランス国民を自分たち自身の所有物のために、そして死から守ろうとする要求は、健康危機の場合よりも生態学的危機の場合の方がはるかに正当化されている。何故なら、それは高々数千人の人間でなく文字通りすべての者に、しかも一時的でなく永久に影響を及ぼすからである。

 

 そのような国家が存在しないこと— そしておそらく幸いにも、そのことは明らかである。しかし心配なのは、そのような国家が、一つの危機(健康危機)から次の危機(環境危機)への移行をどのように準備するのかが見えていないことである。健康危機では、行政は非常に古典的な教育的役割を果たしており、その権限は古い国境と完全に一致している--突然のヨーロッパの国境への回帰という復古主義は、このことを痛烈に証明している。生態系の変化の場合には、この関係は逆になる。行政は、グローバル化された生産から逃れようと人々が様々な新しい方法で生き延びようとしている領域が何になるのかを、多元的な規模で、多様な人々から学ばなければならない。現在の国家では、上から対策を指示することは全くできないだろう。健康危機では、小学校の時のように手を洗い、肘に咳をすることを学び直さなければならないのが勇敢な人々であるとすれば、生態系の突然変異の場合は、それ自体が学習状況にあることに気づくのが国家である。

 

 しかし、「ウイルスとの戦い」という図式があまりにも正当化されていないのには、もう一つの理由がある。健康危機においては、人間全体がウイルスと「戦っている」というのは事実かもしれない--たとえウイルスが私たちに関心を持たず、意味もなく私たちを殺すために喉から喉へと道を進んでいたとしてもだ。状況は生態学的変化の中で悲劇的に逆転している:今度は、その恐ろしい毒性が地球上のすべての住人の生活環境を変えてしまった病原体は、まったくウイルスではなくて人間性なのである!しかし、これはすべての人間に当てはまるわけではなく、私たちに宣戦布告することなく、私たちに戦争を仕掛けてくる人間だけに当てはまる。この国民国家は、戦線が複数になって、それが私たち一人一人と交差しているので、戦争をするには全く準備ができていないし、調整が悪く、設計も悪いのだ。この意味で、ウイルスに対する「総動員」は、次の危機(環境危機)への準備ができていることを何ら証明するものではない。常に次の戦争に遅れをとっているのは軍だけではない。

 

 しかし、最後に、あなたは決して知らないでしょう;四旬節の時期は、世俗的なものであれ、共和党的なものであれ、壮大な改心につながる可能性があります。数年ぶりに、家に閉じこもっている10億人の人々が、忘れられていたこの贅沢を見つけました。この長く、痛みを伴う、予想外の拘束を尊重しようではありませんか。

 

注(1)アラン・ドロシエール『大数の政治学統計的推論の歴史』、カミーユ・ナイシュ訳(ケンブリッジ、マサチューセッツ州、2002年)

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