一般社団法人 文化知普及協会
The association for diffusing cultural wisdom,a general corporation aggregate
ポピュリズムはネオリベラル・ファシズムへの解決策にならない
ヘンリーA. ジルー著、脇浜義明訳 出典出典:Truthout, 2019.9.9
同質政治という嫌な時代になった。自由民主主義を時代遅れの災いと見る右翼への支持が増大している。右翼増大に反対する人々の多くは左翼ポピュリズムへ流れていくが、この左翼ポピュリズムも、右翼ポピュリズムと同様、扇動と統一と排除という議論に陥っている。
実に分かり易い政治指標ばかりである。世界中で政治家たちは、偏見と嫌悪の法外な扇動的言辞を吐き、レイシズムを当然のこととし、しばしば公然として支持する。リベラル派は自由思想にしがみつくが、その自由思想は資本が自由に反対する力を行使する自由を認める思想なのだ。主流メディアは真実追求任務と自社利益の優先を天秤にかけている有様。
権威主義的政権とそれが行う非政治化政策という暗黒の中から現れてくるのは、最新版ファシスト勢力と政治であり、大衆がそれに慣れて無知状態に習性化するのが正常態という情況である。知性や自己決定を破壊された大衆は無知と偏見と所与の嫌悪を習性化する。その結果右翼ポピュリズムへの支持が高まる。右翼ポピュリズムは、グローバリズムで居場所を失くし、基本的生活手段 ― 食物、住居、飲料水など ― を奪われた個々人や国民を軽蔑と嫌悪の眼で見る。ロシア人作家・ジャーナリストの故バシリー・グロスマンが、現在とよく似た時代(スターリン時代 ‐訳者)からの警告を残している。
「習慣の力は何と強力で、何と恐ろしく、何と寛容であろうか。人々は何に対しても慣れてしまう ― 海にも、南の星にも、愛にも、牢獄寝台にも、収容所の有刺鉄線にも・・・この暗黒の空間が産み出すのは習慣の力である。習慣は一見冴えなくみえるが、ダイナマイトのように強力である。何でも破壊する。情熱も、憎しみも、悲しみも、苦痛も。習慣はすべてを破壊できるのだ。」
右翼ポピュリズムの危険
右翼ポピュリズムが提供する疑似民主政治は、情報に基づいて判断する問題、批判する役割を担う人々や機関、集団的行動が姿を消して指導者の象徴一色となる政治状況である。この象徴的な議論では、いわゆる大衆または「群衆」」の無知から引き出される実物よりも大きい政治家イメージが指導者の個人的特徴として描き出される。そういう人物は多くいるがとりわけ、ドナルド・トランプ、ブラジルやジャイール・ボルソナーロ、オランダの反イスラーム・親イスラエルのヘルト・ウィルダースをあげよう。右翼ポピュリズムは本物の民主主義政治を可能にする要素をすべて破壊する。
他の論文でも書いたのだが、右翼ポピュリズムは数十年間にわたって米国でくすぶり続けていた反民主主義的、ネオリベラル的、レイシスト潮流という伝統に乗り、積み重ね、強化している。それは批判的思考を窒息させ、市民的行動を弱め、大衆運動の基盤である集団行動を解体し、民主主義的形態の反対表明をも抑圧し、反対者を弾圧する。硬直した敵・味方というホッブス的二元論[1]に立ち、絶対的忠誠心を求め、民主主義的過程に参加する場合でも排除政治に基づく暴力的傾向を発揮する。特に暴力に関しては、次第に頻繁化し、社会生活とまではいわないとしても、政治の舞台で一つの原理や特徴として受け入れられる時代になると、非常に困ったことになる。そこでは敵・味方の二分法が危険なまでに絶対化し、それに合わせて歴史が消されたり書き換えられたり、無知と権力が共謀して恐るべき抑圧ネットワークを生み出す。
トランプはこの敵・味方対立概念を自分の統治様式の中心に置いている。彼は婉曲的に白人至上主義を打ち出し、排除と棄民政治に依存する退行的国民統一理想を実行しようとする。彼によると、「大切なことは唯一、国民(白人 ― 訳者)だ ― 何故なら国民以外の人間はどうでもよいからである。」この発言の意味は、自分に反対するものはすべて悪い奴か国家の敵であるということ。彼の権威主義的言説は、人種差別的で反民主主義的な米国イメージを持つ指導者であることを露見しているが、彼の「国民」という言葉も、そういう症状を持つカテゴリーに縮小されている。右翼ポピュリズムは指導者の手に独占的権力、万物を代表し統治する力があるとしたいのであるが、旧体制派を喜ばせなければならない。例えば、大衆基盤を固めるために自らの意志に反してグローバリゼーションとそのエリートを批判しなければならない。グローバリゼーション体制を批判して自分たちこそ国民大衆の代表だというポーズを維持しながら、他方では金融エリートの力と彼らのネオリベラル的原則、例えば最富裕層減税や社会福祉空洞化政策を働かせるのである。
ポピュリズムの扇動的性格は使用言語の単純さに現れている。複雑さ、本音の対話、多面的努力、権力分散的統治を避ける言葉遣いである。こういう言葉遣いのポピュリスト精神は、トラブルを恐れずに権力を批判する言語ではない。階級、ジェンダー、女性や人種を抑圧する装置に闘いを挑み、道徳的想像力を逞しくして国家や企業の暴力を証言する議論とは相容れない。国民の中に敵をでっち上げ、悪魔化し、それに対する恐怖を創造し、情報を歪曲し、反対意見や抵抗を抑えつける。そうすることで、民主主義からそのすべての理念を奪い取る。ポピュリストの単純な言葉遣いは人民から知性を剥奪する装置である。評論家や右翼知識人などが、ネオリベラリズムがもたらす不安と不安定を利用して、その役割を果たす。人々の不満、怒り、政治的無力感に訴え、人々をその感覚の中に封じ込め、個人的苦しみや悲哀がもっと大きな社会的・政治的なものとつながっていることを理解させなくしている。
右翼ポピュリズムは加害者の言葉をあたかも被害者のように語り、戦争の言葉を英雄的行為に塗り替え、上からの命令の言葉や人種的純血を誇る言葉と通商と資本主義の言説を統合する。右翼ポピュリズムのもとでは、暴力の言葉は戦争の言葉、失ったものを取り戻すという言葉、壁、境界線、治安の言葉になる。これは社会的良心を持たないポピュリズム ― 規制緩和、福祉国家解体、気候変動否定、格差増大、国家の過去を塗り替える歴史修復によって特徴づけられる専制主義社会である。
トランプやボルソナールのようなポピュリスト指導者は公的利益のために政治をするのでなく、自分と金持ち仲間の利益のための統治を行い、世の中をどんどん無法と野蛮へと移行させる。例えばトランプが「元の国へ帰れ」とレイシスト発言で攻撃した有色女性議員のうちの二人のイスラエル訪問に際して、イスラエルに二人を入国させるなと要請したことなどは、上のように考える以外に説明のしようがない。また、300万人以上の人々へのフードスタンプ用の連邦予算をカットするという残酷な政策を打ち出したことも、上のように考える以外に説明のしょうがない。トランプはハウジング・バウチャー[2]やメディケイドなどの政府給付を使う移民からグリーンカードやビザなどを取り上げる命令を出し、移民の家族を切り離す家族やコミュニティ破壊をやっているが、これも上のように考える以外に説明のしようがない。彼のグロテスクな権力意識と自慢は、他者を支配し辱める執着心以外の何物でもないようだ。
右翼ポピュリズムは暴力の魅力に取りつかれている。鬱積した怒りと敵意を発散させるが、それは醜い権威主義的統治形態と道徳的に損傷した意識と共謀関係にあり、集団的暴力や狼藉行為となる。
右翼ポピュリズムはファシズム政治の要素を共有している。その中には、歴史への疑問や歴史の複雑性を無視して、自らの政策を単純に正当化する絶対的イデオロギーがある。単純な敵・味方区分政治は、ある種の人間を無用として処分して純粋国民国家を作ろうとする。想像を絶する恐ろしいことが普通となる恐怖の文化が現出する。真実。事実、科学的証拠を軽視し、人間の言葉から意味を剥奪し、ディストピア的統治形態を正統として、虚偽を国家的理想の位置に高める。故意に歴史を忘れて自らの反ユダヤ主義、偉人への敵意、先住民や他人種への嫌悪を覆い隠す。
また右翼ポピュリズムは個人の自由、正義、公平、平等という原則を特徴とする社会的概念を破壊する。また反知性主義の上で成長し、かつてハンナ・アーレントが言ったように「我々の思考カテゴリーと判断基準の荒廃を明るみに出す。」最後に、ファシズムと同じように、いわゆる指導者とされる人物に権力が集中する権威主義的政府を支持する。
左翼ポピュリズムの限界
様々なポピュリズムがあるが、ベルギー出身の政治学者でウェストミンスター民主主義研究所長のシャンタル・ムフなどは、左翼ポピュリズムが右翼ポピュリズムの解毒剤になると言っている。彼女によれば、左翼ポピュリズムは拡大する社会的・経済的格差を明らかにして非難し、資本主義の残酷さを糾弾、堕落した中道派政治家の正体を暴きだす。左翼ポピュリズムは中道派政治がネオリベラル・イデオロギー、金融資本、緊縮財政、規制緩和、企業権力と実際的に癒着していることを指摘してそれに反対している、とムフは指摘する。
アルゼンチン出身の歴史学者で『ファシズムからポピュリズムへの歴史』の著者フェデリコ・フィンケルスタインは、左翼ポピュリズムの中には「不平等な社会的・経済的条件に注意を向けるあまり・・・時にはネオリベラルの緊縮政策が条件の違いを無視して一律に実施することを批判したり、いわゆる中立的なテクノクラートの実務中心的解決法をも問題にする」ことを指摘している。しかし、後者に関しては、左翼ポピュリズムが「一部エリートを優遇し国民だけに負担を負わしていると主張して」その政策を崩したとして、その批判を是認した。ムフはこのような批判を無視、左翼ポピュリズムが主張する人民主権と平等の結合が台頭・拡散する右翼ポピュリズムへの最大の挑戦になると言う。彼女は、現在世界で成長している右翼ポピュリズムこそが民主主義理念や民主主義諸制度を崩していく背景条件だと主張している。
ムフが特に強調しているのは、ラジカルな民主主義を回復し拡大するために、一つの政治勢力として統合された大衆闘争に基礎を置くポピュリズム運動の構築である。ムフにとって、左翼ポピュリズムの課題は、人民主権実現の闘いが民主主義をより広く実現する闘いの一部であるべきことである。彼女は、人民がもはや自分の運命をコントロールしていないと感じていることを理解している。人民の巨大な疎外形態に対する彼女の答えは、自由主義的理想と台頭する右翼ポピュリズムの反民主主義的政治との違いを明確に見せる左翼ポピュリズム運動を作り上げることである。こういう考え方のもとでは、民主主義は右翼的敵対者や様々な形の専制主義者たちに対するイデオロギー戦争を闘う手段となる。
右翼と闘ううえで重要な左翼ポピュリズム論ではあるが、まったく問題がないわけではない。ムフやその他の左翼ポピュリズム賛同者は、ポピュリズム全般に共通してある病理現象を分かっていない。フィンケルスタインの他にもシドニー大学及びベルリン社会科学研究所教授のジョン・キーンやドイツ出身のプリンストン大学政治学教授のヤン=ヴェルナー・ミュラーなどが指摘していることだが、その病理現象は、ポピュリズムはどんな政治グループでも使用できる政治的に空虚なカテゴリーになり易いということで、それが低く見積もられている。そのうえポピュリズムは、どんな内容や形態であろうと、左ではバーニー・サンダース、右ではドナルド・トランプのように、指導者の個人性の負うところが大きい。
さらにフィンケルスタインが正しく判断したように、「多くの場合ポピュリズムは一つの国民の名で語り、民主主義の名で語る。しかし、その民主主義は、厳密には、ポピュリスト指導者の抱負の表現として規定される。」そのうえ、単純な敵・味方二分論を採用し、統合と排除を厳格にする組織作りを行う危険を犯す。本来、ネオリベラリズムの危機とそれに対応する主体性、アイデンティティ、行為主体の危機に取り組むためには学習が重要なツールであるのだが、ポピュリズムは教育や学習という困難な仕事を軽視する。
教育こそが政治的風景を変える可能性がある
両側のポピュリズムにいる人々、権力、平等、アイデンティティ、公民権、難民保護、その他の政治的問題に関して相異なる考えを持つ人々に働きかけて、その意識を変えるうで、教育は重要な役割を持っている。二項対立的政治では集団的政治意識は生まれない。それどころか、硬直した「正教」の袋小路に陥るか、俗っぽいセレブ崇拝文化に支配される。意識革命どころか、あらゆる批判的公的意識や思想を踏みにじる知的幼稚性と商品化された文化の混合物に支配されることになる。
左・右のポピュリズムは様々な陰謀説に陥ったり、米国の歴史家リチャード・ホフスタッターが「反知性的偏執性スタイルの政治」と呼んだものを祀り上げたり、あるいは「ジャーナリズム談話(短絡的なものでないとしても)の道具に変身する。」要するに、ポピュリズムは、一方では反対者を否定し、悪魔化し、彼らを「反逆者、陰謀屋、反民主主義者」と非難、他方「自分たちの立場を唯一本当の政治的正統性」を持つと心の狭い態度を保ちながら、様々に多様な考え方を表現する可能性を秘めた器のようなものである。換言すると、そういう考え方をすると、自らのイデオロギーと決定論的政治に凝り固まった硬化症になる。
進歩派にせよ反動派にせよ、ポピュリズムは権力の位置と範囲を指導者の役割に縮小する。これでは抵抗の政治力が弱まるし、大衆的反資本主義政治運動を構築するという困難な仕事がいっそう困難になるし、自ら決定して積極的に参加する個人や団体の成長の妨害になる。難点はまだある。権力に挑戦するグループがポピュリスト化すると、政治的具体性と歴史的背景を失い、グループ外の人々や活動を異端者や反対者と均質的に一般化し、時には敵と見做すようになる。一般的にいって、ポピュリスト・グループはお互いに敵対する危険があり、左翼の場合は、例えば「階級」と「人種」の対立だとか、お互いに孤立的なシングル・イシューにこだわって、それを克服して結合できない危険がある。そのうえ、権力への認識が単純で、単に抵抗すべきものと単純化され、民主主義制度を発展させる闘いの基盤となる有効なツールとなる可能性を見ない。
ポピュリズムを越えて
ポピュリズムはいわゆる「エライさん」を批判する強い傾向があるが、権力というものはもっと奥が深く、経済・政治構造や時ととともに発展するイデオロギーに根ざしている ― だから、そういうもの全体と闘わなければならない。この闘いに必要なことは、ビジョンを持つことと、情報を得た労働者、芸術家、知識人、若者、単に企業の「エライさん」だけにでなく資本主義そのものに挑戦する人々から成る広範な運動の構築である。ポピュリズムは一時的な怒り、不満、正義感の爆発(例えその方向が間違っていないとしても)と同意語になり易い。そういうポピュリズムは結局デマゴギーに利用されることになる。社会運動は単に隔離感、怒り、不満感の上に築かれるものでなく、人々が日々直面している問題に通じ、人々が自分が何者であるかを自覚し、単に「エライさん」を憎むだけでなく支配構造の変革を目指すようになるアイデンティティ政治を創造する共同的イデオロギー闘争という困難な組織化作業の上に成立するのだ。
必要なことは、被抑圧者の苦痛と怒りを、民主主義的な社会主義的社会を建設するという目的を持つ社会再編成に向けることだ。米国や他の権威主義的資本主義社会で人々が直面している問題は底が深くて幅広く多様で、巨大な権力が勝手気侭に人々を虐げている。この深い抑圧の源に挑戦するためには、労働者、知識人、若者、いろいろな反資本主義的運動などを結束させる連合勢力を作らなければならない。そのような連合体は社会で最も虐げられている人々に語りかけ、彼らと話し合うとともに、資本主義が彼らから自由に必要な物質的条件を奪い取り、ほとんどゼロに近い資源、時間、尊厳をめぐって彼らに競争させている現実の理解を実現させなければならない。
資本主義は民主主義のアンチテーゼで、ウィンザー大学哲学教授ジェフ・ヌーナンが「普遍的生活財」(universal life-goods)と呼んだものを提供できないので、破棄すべきである。「普遍的生活財」とは「健康的環境、支払い能力でなく必要に応じて提供される公的ヘルスケア、十分な資金のある公的教育制度」などのこと。彼によれば、そういうものがなければ充実した生活ができないので、「普遍的生活財」と呼んだのだ。
右翼ポピュリズムと闘うためには批判の言語と希望の言語を包含する政治が必要である。つまり、人々がもっと力をつけたい、もっと知識を得たいという欲求を持つようになり、資本主義と民主主義が同じであるという偽りの思想を否定する目的で一致した集団的抵抗を行う政治である。マーチン・ルーサー・キング・ジュニアが、闘う対象のシステム全体を把握する政治が必要であり、危険を伴わない闘いなどあり得ない、闘いとは価値観の大変革と正義と平等がいっしょになる世界を夢見ることに基づく共同事業だ、と言ったが、まさに至言である。
ネオリベラリズムのもとで働く脱政治化力は、右翼ポピュリズム台頭を促進するという意味で、過小評価してはならない。格差拡大、疎外まん延、すさんだ文化、公共財と市民文化の崩壊、社会契約解体、社会問題の犯罪視化、非識字増加等々は、すべて脱政治化の表れである。そういう状況下では、リベラル・デモクラシーの人気が凋落していることもあって、民衆はネオリベラル・ファシズムによって政治的に幼児化されていることが理解できなくなる。批判的判断力、自己決定に基づく共同行動をする能力が破壊される。だから左翼には、基本的価値観への右翼の攻撃、民主主義と社会的公平の破壊、民衆の中に苦痛と悲惨を拡大する右翼の計画をみんなに見えるようにする任務がある。そして民衆が学習できるプログラムを提供し、民衆が理解する言葉で情報を伝えるメディアを作り、デモを民衆教育の道具として使って、資本主義の正体を暴き、意味ある社会主義社会をいっしょに建築しようという政策を提起すべきだ。このように民衆教育を最重視しなければならない。人民主権、階級闘争、経済的平等という問題が政治的・経済的・社会的正義を求める共同闘争の中心問題とならないならば、資本主義の権力とイデオロギー的力は相変わらず続くであろう。
反動的ポピュリズムも進歩的ポピュリズムも、私が「ネオリベラル・ファシズム」と名付けた新しい資本主義編成体に挑戦できる戦略を開発できないだろう。
ポピュリズムは過激化する傾向があり、その政治は想像上の人民を利用し、物事を単純化し、カリスマ的扇動的指導者のもとの、疑似民主主義的政治スタイルである。
権力がグローバル化し、いわゆるリベラル・エリート体制の公約が政治的・倫理的に破綻した現在、ネオリベラル・ファシズムと闘うためには新しい談話とビジョンが必要である。フェミニストで政治学者のナンシー・フレイザーが言ったように、我々には「幅広い社会層の人々が参加し、金融化、脱産業化、企業グローバリゼーションの問題に取り組む」政治運動が必要である。
ポピュリズムは世界的にファシスト運動が台頭していることの説明ができないし、それに対処する答えも提供できない。必要なのは力強い新しい政治ビジョンと、ネオリベラル・ファシズムをなくし、単なるユートピア的夢を超える社会主義的で民主主義的な社会を建設することを心に描いて、そのために闘う多様な社会層の人々や団体が連合する共同闘争を発展させようと継続的努力を続けることだ。その中で教育、主体性、権力問題を真剣に考えることだ。闘いなくして正義は実現しないし、みんなが闘おうという集団的意志を持たない限り、生きるに値する未来はないだろう。
訳注
1.『リバイアサン』で「万人の万人に対する戦争」を説いたトーマス・ホッブスの政治は、敵と味方を区別することを本質的特徴とするものになるとされる。戻る
2.住宅補助手当受給権のようなもの 。戻る